2年かければ、たいてい人間は何にでもなれる

さあ2021年度が始まって2日が経過した。

ぼくのように早速ドツボにハマっている人もいれば、順調に週末を迎えた人もいるだろう。いやいや土日こそが仕事日だとか、「24時間(365日)、働けますか?」という昭和世代コマーシャルのような人もいるかもしれない。

(もちろん、ぼくも週末は文筆業で忙しい。おそらく誰もがタスク山積みで、当記事を読んでいるヒマなんて無いような気もする)

さて今回は先々のことを考えて、あらかじめ記事を投稿しておくことにする。人間、何かあった時には「何かあったらxxxをやって心を落ち着けて、本来の力を取り戻す」という回避策を用意しておくと便利だったりする。

伊達と酔狂だけで長生きしていると、こんな知恵も身について来る。歳を取るのも、悪いことばかりじゃない。ちなみに野球選手のイチローみたいに、打席で構える前にバットをクルリと回すルーチン儀礼で、集中力をアップさせるという技もあったりする。

(しかし、この手のことになると米国人は本当に陽気な人が多い。あの失敗しても、「さあ気分を取り直して頑張ろうっ!」というメンタルは、ぼくから見ても本当に興味深い)

二年間でプログラマー

今だから笑い話になるけど、ぼくが新入社員となってからの二年間は大変だった。恐らく技術者としては、滅多に味わえない体験だと思う。

何しろいきなり冷蔵庫サイズもある “制御機器用の基板”、”制御プログラム”、”5cmキングジム・ファイル” を渡されて、「あとは全て宜しく」とだけ言われたのだ。つまり職場への配属と同時に、いきなり制御機器システムのメンテナンス責任者となった訳である。

その配属された部署の開発する制御機器では、制御システムではコンピュータ導入が進んでいた。今まで扱っていた制御機器にも新型からマイクロ・コンピュータを組み込まれるようになった。そのシステムと実行プログラムは専門業者に開発して貰ったのだけれども、その専門業者の後を引き継ぐことになったのだ。

ぼくが配属されたのは、ちょうど新型の制御機器が出荷開始された直後だった。職場からは専門業者は去り、誰もコンピュータ・プログラミングなどやった経験はない。そもそも職場には、パソコンはプログラミン用のノートパソコンが一台だけ置かれているという光景だった。

ベテラン技術者集団だけれども、模造紙サイズの設計図にコンデンサなどの配置図を描く人しか存在しない部署だった。そんな職場に「大学でプログラムをやったことがある経験者」として配属されてしまった。

いやいや、ちょっと待って欲しい。ぼくは大学では素粒子物理学の専攻だった。書いたのは簡単な数百行程度の簡単なプログラムで、とても「経験者」とは言えない。せいぜい「パソコンを使ってみた経験がある素人」とランキングされる程度だ。

プログラマーが一つのプログラムを組むというと、だいたい三万行くらいが目安だろうか。先日セミナーで紹介されたローコード型(殆どプログラミングを必要としない新型プログラム言語)でさえ、三千行だ。

(何しろセミナーのKubernetesプレゼン資料は、「コードを求めて三千行」が終わり文句だった。これは本当の話だ。おそらく「母を訪ねて三千里」のパロディだろうけれども)

5cmキングジム・ファイルの中身は、フローチャートという処理図が殆どだった。どうやら専門業者は、腕の確かな職人だったようだ。素人のぼくでさえ、ファイルを開いた瞬間に「見やすそうだ」と感動した。これがスラスラと理解できるプロのプログラマーならば、どうということは無かっただろう。

IF文

しかし、どんなに良い大学を卒業していたとしても、たとえ素粒子物理学を学んでいても、素人は素人だ。ある日突然プログラマーとなって、「さあ、制御システムの動作を司るのは君だ!」というのはジョークにしか思えない。

おまけに… おまけに配属して三か月もしないうちに、最初に出荷した製品が妙な動作をすることが判明した。どういう訳か制御基板が正常動作しなくなった時の安全装置が働き、制御機器が停止してしまうだ。まだ本番稼働前だったのでお客様からクレームは来なかったけれども、大至急の対応が必要な赤信号トラブルだ。

本当に何か問題が起こったのか、それとも正常動作しない原因はプログラム不良なのか… コンピュータに頼ると、こういう時はベテランの品質保証チームでも、お手上げ状態となりがちだ。原因究明は制御システムの動作を司る責任者というか、制御プログラムを理解することが出来る者にしか出来ない。つまり、ぼくに全てが託されてしまったという訳である。

ちなみに当時はパソコンが一人一台ではなかったから、行先掲示板というものがあった。我が部署の課長は行先に「探さないでください」と書いて、どこかへ消えてしまう時間帯があった。もしかしたら、工場長のところへ状況報告に行っていたのかもしれない。

今にして思えば、いざとなれば専門業者から腕の立つプログラマー(ちなみに当の開発者は退職していた)を派遣して貰うとか、工場内の別部署から経験者を借り出すことも可能だったと思う。

しかしどうやら、「可愛い子には旅させろ」ではないけれども、「のんきな新人には緊張感が望ましい」と判断されたらしい。新人だから当時の周囲の配慮など分からなかったけれども、ともかく課長と上司とぼくの三人で、会社に泊まり込む日々も数日あった。

残業時間は… さすがにブログでは公開できない有様だった。ともかくプログラム初心者向けの本を自腹で購入したりして、必死でプログラムやマイクロ・コンピュータを勉強する日々が続いた。

そして三か月くらいして、ようやく正常動作しない原因が、本当に稀にしか起こらないけれども、制御機器へ送られてくる電気信号に「ひげパルス」が混入されることだと分かった。あまりに稀なので、設計時には技術者もプログラマーも、ひげパルスの存在さえ把握できていなかったのだ。

夏になって気温が上昇すると、制御機器内の温度も上昇する。そしてコンデンサなどの制御回路向け部品の中に、一瞬だけ稼働時にパルス信号を生じるものが存在している。だからぼくが配属されて数か月で「事件は起こった」という訳だ。

そこまで分かると応急処置としては、一定時間以下の信号を無視するようにプログラムを修正すれば良い。そしてパルス信号を生じる部品は、これから製造する機器からは別部品に交換すれば万事オッケーだ。

で、これをキッカケとして、なんとかプログラムの「プ」と、マイクロ・コンピュータ・システムの「マ」の字くらいは理解できるようになった。素人からプログラム初心者へと格上げだ。

今にして思うと、同じ処理をやっていた重複部分を除くと、だいたい三万行くらいのプログラムに取り組んでいたと思う。プログラマーとしては、ごく標準的な分量だ。

これがキッチリ理解できるようになり、自由に好きな部分をミスなく修正できるようになるまで、だいたい2年ほどかかった。でも、逆にいうと、ぼくのような素人が一人前になるのに、二年あれば何とかなるということだ。

今ではパソコンは当たり前の存在となっており、スマホでプログラムを書くことだって簡単にできる。だから高校数学で標準的な成績を取ることができる頭脳になっていれば、二年間で一人前のプログラマーになれる。その気になれば。

だから技術者が失業するようなことがあっても、絶望することはない。昔も今も、プログラマーはアチコチで募集されている。個人的にはプログラマーに分類したくない「Webプログラマー」だって、引く手あまたである。

だからぼくは、まともな技術者の転職には楽観的なのである。高校数学の数式を操ることが出来れば、今のプログラムならば、誰でも書くことが出来る。

技術者、万歳!である。

(ただしプログラムは一文字でも間違えると全く動作しないことが多いので、あんまり心臓には良くない)

二年間で海外留学

さて入社後二年が過ぎた後、今度は別な部署へ配属された。今度はソースコードを相手にしない製品企画という仕事だった。これも対象はコンピュータの世界であり、米国シリコンバレーが最先端を突き進んでいる時代だった。

それで上司から「小野谷くーん。英語が出来れば、社費で海外留学させて貰えるよー」とのことで、その気になってしまった訳だ。昼休みや風呂の中でも、せっせと英語の勉強をした。(人参で上手に馬を走らす… まさに上司の鑑のような御方でしたな)

で、一年したら本当に海外研修生になることが決まってしまった。そして出発直前の二年が終わる頃には、海外留学の資格も獲得してしまった。TOEICでいうと、スコア800を余裕で越えていた。

しかし上司が責任部署と掛け合ってくれたけれども、ぼくは海外研修生に正式決定してしまっていた。だから資格としては獲得できても、海外留学への変更は諦めて欲しいと部署から返事されてしまった。

ぼくの上司も、ぼくがそこまで成長できるとは想定できなかったとのことだ。部署としては良くあることなので、あっさり諦めるようにと返事できた訳である。それはともかく実用英検の三級だった者が、TOEICスコア800を軽く越えてしまった。それがけっこう当たり前なのだ。

ぼくは今でも英語の才能は皆無と言われているけれども、やれば出来るということだ。だって、どんなに英語の才能が無くても、普通は米国生まれで米国育ちであれば、日本語のように英語を扱える。だから適切な訓練をすれば、それなりに英語を使えるようになる。

ちなみにオッサンになってから英語学習を再開したけれども、紆余曲折の末にTOEICスコア900を余裕で突破し、スコア950を取れるようにもなった。

その数年後にTOEICを受験したらスコア784となり、リスニング問題も聞こえなくなくなっていた。そう考えるとTEOIC受験スキルが伸びたのではなくて、英語力そのものが一時的に底上げされていたらしい。

(そういや英語で書いた論文も「文法ミスが多い」だけど、当時は無事に採用された。国際会議でも議論は可能だった)

ちなみに高校時代は、本当に英語は苦手科目な方に属していた。英語は頂点を極めてしまい、フランス語やスペイン語を勉強しているような連中が、羨ましく見えたものだ。

ともかく普通に市販の参考書を片手に努力すれば、二年で「使いものになるレベル」にまで到達できるのだ。だから二年あれば、英語方面も大抵の人は「何とかなる」と言える訳だ。

そして米国生活は楽しかった。ちなみに上司も一度だけ「部下の視察も兼ねて」という名目で海外出張にやって来て、ダンヒルでスーツを格安購入することなどを体験した。お互いにWin-Winなことだったけれども、正に「上司の鑑」である。

二年間でプロブロガー

そして現在はブロガーとなり、このような記事をせっせと書いている。勝手放題に好きなことしか書いていないのに、毎月10万PVアクセス程度を維持できている。読んで下さるあなたのような御方には、感謝の言葉しかない。

ちなみに当nekobokoドメインを取得したのは、ドメイン登録データを確認すればお分かりのように、2018年の終わり頃である。つまり独自ドメインを取得して本格的に “お小遣い稼ぎブログ” に取り組み始めてから、二年経過したという訳だ。

残念ながら毎月10万PVアクセス程度では、プロとして独立するだけの売上は無理だ。しかし毎月数万円の収益は上がっているので、本当にお小遣い程度にはなっている。

ぼくは初めてココログでブログ開設したのが2005年9月22日なので、相当なオッサンだ。いろんなところで変わった経験も積んでおり、雑記ブログの記事ネタには困らない。

だから失業したとしても、朝から晩まで記事を書き続ければ、プロブロガーとして生活して行くことは可能のように見える。だから「二年でプロブロガー」と言っている次第だ。

ただし先ほどの二つとは違って、誰もが二年でプロブロガーとなれるかは保証できない。ぼくは生まれた時から話すことが好きで、何かを語らせたらば止まらなくなる。

自分で言うのも何だけれども、プロブロガーの適性?とやらを持っていると思う。世の中には「誰でもプロブロガーになれる」と安請け合いをする人もいるけど、どうも周囲を見ていると賛成は出来ない。

ただしブログというのはアクセスを伸ばすコツを得るのに手間暇と時間を必要とするけれども、適性があれば二年間程度で伸びて来る。逆に言うと、二年がんばっても毎月10万PVさえ届かないのであれば、潔く諦めることをオススメしたい。多種多様で、いろんなアプローチはあるけれども、本質は固定読者の確保というパターンか、検索エンジンでの上位確保というパターンの二つしかない。

こういった業界図を俯瞰する能力が、プロとして売上を確保するならば必要だ。インターネットの世界は、絶えず変化の続く世界だ。ぼくは元プログラマーとして興味があったので、ブログを開設したのが2005年9月22日である。気楽にコツコツやれるタイプの方が強い。ココログのred-brick.cocolog-nifty出身だけれども、同じような人は多い。

ココログには毎日のようにブログ記事の投稿を続けて、楽勝で3,000記事を超える人もいる。本当に「好きこそ、ものの上手なれ」と、言えるかもしれない。黒執事の女王陛下のお言葉のように、雑記ブログ派としては「数は力」である。(そして検索エンジンは、「一撃必殺」の要素が強くなり、その分だけ不安定さが増加する)

若者には感性豊かで一時的に成功して、その後でブログ記事を書けなくなって人も多い。小さい頃からテニスや野球選手のように育成されている訳ではないから、「若い」ということは経験が少なさに直結する。ボクシングの戦いだと「引き出しの数が圧倒的に少ない」という訳で、ヒット記事を書き続けるのは結構ムズカシイ。

なんかタイトルと逆の方向に進んでいる気もするけど、ブログというのは本当に多種多少な世界なのである。小説や日記そのものを書いているブログもあれば、技術情報を提供する参考書や辞書みたいなブログもある。

ブログというよりも、普通のWebサイトに分類したいようなブログさえ存在する。そして「プロ」を名乗る場合に大切なのは、着実に安定して売上を継続確保できることである。

(そもそもプロの作家は分かるけれども、実はプロのブロガーというのは少々抵抗感がある。本と違って、広告費などのお裾分けで “稼ぎ” を得ているので)

少なくとも言えるのは、ぼくの場合は二年で毎月数万円をお小遣いを得ているということだ。これはささやかだけれども、オッサン会社員にとっては救いだったりする。

何しろ上司の半分くらいは、今まで何回かあった早期退職の優遇制度によって会社を去っている。自分としても、いつ何が起こっても、おかしくない “お年頃” だ。

家族を持つオッサン… いや、オジサマにとって、多くはないけれども副業があるというのは心理的負担を軽くしてくれる。だから同じような人のためにも、こうやって説明している訳だ。

忠告者の存在は大切

以上が三つばかりだけれども、何かをやって二年間で得ることが出来たものだ。世間でも「職人として基本を学ぶのには二年の訓練」と聞くことがあるけれど、たしかに納得できる面がある。

それに大学院のマスターは二年である。ビジネスパーソンに有名なMBAだって二年間だ。だから二年あれば、大抵は標準的なレベルに達することが出来ると思う。

ただし重要なのは、ブログのように向き不向きのある分野だ。それに最初は絶望的なほどアクセスは伸びないし、しんどい日々が続く。だから美味しいことをささやくオンライン・サロンが後を絶たない訳だけれども、サロンに参加したからといって成功する保証は全くない。

ぼくの経験からすると、何かに新しく挑戦する時には、その分野の素人であっても、忠告してくれる家族や友人や同僚/上司がいるのが望ましいと思う。呪術廻戦の東堂葵のような存在と言えば、分かる人には分かって貰えるだろう。

厳しい言い方になるけれども、憧れや夢だけで無謀なことに何年も挑戦して、後で傷ついてメンタルなどを病むのを見るのは辛い。だから忠告者の存在するというのは、とてもチャレンジャーにとっては大切なことだと思う。

そんな訳で4月を迎えて新挑戦を始めている人(と、いうか、ぼく自身がその一人だ)に向け、いざという時のために記事を書いている次第である。いざとなったら「勇気ある撤退」で、他人のアドバイスに耳を貸して心機一転するのだ。

それにしても本気を出すには自分を追い込むことが有効だけれども、このような制約を課すと、失敗した時のダメージも大きい。このような時、フロンティア精神を残す米国人気質というのは、流石だと尊敬する。さすがは禁酒法まで作ってしまうお国柄だ。

それでは今回は、この辺で。ではまた。

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記事作成:小野谷静(おのたにせい)